ランデル・スタフォード牧師の証 2003年2月 (ダウンロード)
ランデル・スタフォード牧師がクリスチャンになったきっかけと今日に至るまで
この証(私のイエス・キリストにある人生の証)を書く事になったのは、2,3年前に、アメリカの父方の義理の親戚の方からEメールを頂いた時です。私は5歳の時以来、その叔母と会っていませんでした。私は早速返事を出すと、彼女から「主を褒め称えます!あなたの40年の人生で何が起こっていたのですか?」と返信が来ました。私は、彼女がクリスチャンだと知りとても興奮しました。そしてイエス・キリストにある私の歩みにあって、初めて私は座ってペンをとり「証」を書きました。その後、2,3の事を更に明確にするために変更し、最近起こった出来事も更新しました。全ての出来事について私の記憶は正確ではないかも知れませんが、限りなく近いものです。妻の順子は、校正役になって私が誇張したりしようとする� ��から見守ってくれました。
この証を読み上げる前に誓います。――これから話す事は事実起こった出来事であって、私が本来望んでいたものではありません。しかしながら、イエスによって捕らえられて以来、私はただイエス・キリストを求めたくなりました。私はしるしや不思議を求めた事はありませんし、未だに求めていません。しかし、主が今日でも多くの賜物と、務め、そして奇蹟をイエス・キリストの霊によって注いでおられる事を私は受け入れています。それらは主の御旨によって行われたのであり、私達がそれらを求めるからではありません。多くの信者が主から迷い出、ついには偽預言者と偽りの賜物に仕えるようになってしまう原因はここにあると私は信じます。私達の教会では、多くの賜物を経験し、主の御手が私達に触れる事を見て きています。しかし、私達は祝福を名付けたり、主張したり、要求したりはしません。私達は信じ、仕え、分かち合い、そして待ちます。すると主はいつも誠実に、私達が願う事以上の事をして下さいます。
どうかこの証を、どなたとでも遠慮なく分かち合って下さい。この話について、私は恥ずかしくありませんし、誇ってもいません(と願い、祈っています)。ただ、神の民を励まし、力づけるようにとだけ願っています。
(私の証)2003年2月
キリストにある友へ、
イエスの御名により、日本より愛をもって御挨拶申し上げます。
すぐに返事を差し上げなくて、すみませんでした。学校の為にいろいろと準備がありずっと忙しかったのです。教会の牧会の他に、私は学校の12人の子供達の校長であり、また「天幕張り」でもあります。つまりは、教会を興すのに自分自身の財産を使い、今でも私達は、完全に自分達だけで教会を支えています。(働きながら大学を出るようなものです)。私達の教会の50人の信徒は忠実に献金を捧げていますが、日本の住宅ローン、税金、ガス、水道等の生活費は大変高いのです。ですから、私は教会の経済を補う為にどんな仕事でもします。現在はコンピューターを作り、それを主にクリスチャンの方々に販売しています。
ナオミ(長女)から、あなたが、私のキリストへの回心の話を聞きたがっている、と聞きました。これは本当に奇蹟の話ですので、喜んで分かち合いたいと思います。あなたがどのくらい、バズ(兄)とドーリーン(姉)から話を聞いているのか分かりませんので、初めからにしましょう。
―――私はルイジアナ州で生まれましたが、父は米空軍のパイロットだった為いつもこの基地からあの基地へと引っ越していました。私が覚えている最初の記憶はインディアナ州のバンカーヒル空軍基地のものです。そこに住んでいた際、私達はあなたを訪問したと思います。農場の事を少し覚えています。そこから私達は、カリフォルニア州のマーチ空軍基地へ移りそこで父は退職し、シアトルでボーイングSSTプログラムのテストパイロットに任命されました。3年後に政府がSSTプログラムを取止めたために父は職を失い、日本航空に指導教官として雇われました。1969年私達は日本に引越しました。私が12歳の時です。私は米軍のDOD高校へ通い、順子に出会いました。2人共17歳でした。その後2年間ハワイ州の大学へ通いましたが� ��私は順子と一緒に居たくて日本へ戻って来ました。2年間東京の上智大学へ通いましたが、あまり真剣ではなかったので一学期落としてしまい、恥ずかしい事に卒業しませんでした。順子と私は英会話学校を始めそれなりに成功を収め、1980年に結婚しました。
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